開創の由来

 

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亮山和尚の夢

 

1809年3月17日眠りについていた亮山和尚はある夢を見た。その夢の中で弘法大師が和尚の枕辺でこう言った。「知多は我が悲願の宿縁の地、知多八十八ヶ所の霊場を開くべし、その開創に二人の道僧を遣わす。三人力を合わせてこの大業を成し遂げよ」これは知多四国八十八ヶ所霊場を作れというお告げだと確信し、知多四国八十八ヶ所霊場の開創を決意した。

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三人の努力

 

 

 

知多四国札所の設置に奔走するがこの時の、知多半島に真言宗の寺院は30しかなく和尚は行き詰まった。1819年、困り果てた和尚に夢の中に再び弘法大師が現れ、翌日、岡戸半蔵と出会い開創に向かって大きく前進する。半蔵は自らの私財を売って大師像を作製し、和尚とともに各寺院を回った。1823年和尚がかつて三度本四国巡礼したときにお世話になった武田安兵衛が知多半島を訪れ、地形が四国に似ていると感激して、和尚に開創の協力を誓った。その後、安兵衛は本四国八十八ヶ所の砂を持参し、和尚、半蔵と共に寺院を回った。馬の口を半蔵が持ち、大師像を和尚が、本四国の砂を安兵衛が持ち、各寺院を回り1824年ついに現在の知多四国八十八ヶ所霊場が完成した。

 

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登場人物

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見出しボタン2弘法大師

宝亀5年(774)現在の香川県(讃岐)で生まれる。31歳の時遣唐使船で長安に渡る。唐で密教を学び、日本に帰国後、密教を宗派として成立させ、日本で初めて真言宗を開く。高野山に金剛峰寺を建立し、真言宗修行の聖地とした。その他にも京都に日本で初めての庶民ための学校である綜芸種智院を開校する。承和2年(835)高野山奥之院にて没す。享年62歳。死後、醍醐天皇より弘法大師のおくり名を賜る。
弘法大師は弘仁5(814)年41歳の時、三河から舟路で知多半島の東岸を南下し、南知多町大井の聖崎へ上陸し、同地の医王寺と山を越えた山見海の岩屋寺で護摩行を修め、野間へと出て陸路西岸を北上したと伝えられている。聖崎、岩屋をはじめ、砂聖・仏山・求聞持山・明星水・弘法井など大師ゆかりの霊跡が現在でも多数残されている。

見出しボタン2亮山阿闍梨(りょうざんあじゃり)

安永元年(1772)犬山藩士石田徳右衛門の二男として生まれる。12歳で出家を決意し、文化3年(1806)35歳で現在、墓のある妙楽寺に移動した。文化6年(1809)3月、弘法大師から夢でお告げを受けて知多四国霊場の開創を決意して、文化6、9、15年に本四国霊場を巡拝し、岡戸半蔵、武田安兵衛の協力を得て、文政7年(1824)に完成。翌年には道中記を書いている。弘化4年(1847)3月18日、福生寺で没す。享年76歳。墓は妙楽寺にある。

見出しボタン2岡戸半蔵

宝暦2年(1752)知多郡福住(現在の阿久比町)の農家に生まれる。壮年に妻子を失い、それがきっかけで、行者となり亮山和尚と出会い知多四国八十八ヶ所霊場開創に尽力する。特に特筆すべきことは自らの私財を投げ打って、大師様の像を作製したことである。文化13年(1816)に古布の誓海寺に大乗妙典六十六部供養塔を建立した。文政7年(1824)に古布村誓海寺で没す。享年73歳。戒名「冷月院禅林逸学庵主」。

見出しボタン2武田安兵衛

天明8年(1788)讃岐国に生まれる。亮山和尚が本四国巡礼の際、世話をした高松城の武家。文政3年(1820)全国各地を巡礼途中に初めて知多半島を訪れる。文政6年(1823)再び知多半島を訪れ、大井の医王寺、宝乗院で亮山和尚、岡戸半蔵の知多四国霊場開創を知り霊場作りに協力する。文政8年(1825)布土の十王堂にて没す。享年38歳。墓は布土の葦航寺にある。戒名「廻翁浄国信士」。