ものづくりの拠点

醸造業   窯業  鍛冶と黒鍬  尾州廻船

むかしの醸造業の様子
明治前期の醸造蔵
●醸造業
 
知多半島の醸造業は古くは大野が中心でした。17世紀後半の大野には、約30軒の酒蔵がありました。その頃の酒は今のような清酒ではなく、甘いにごり酒のような酒でした。
 18世紀後半になると、元米・麹米ともに精米した諸白と呼ばれる清酒のような透き通った酒がつくられるようになりました。そのため、大消費地江戸でも知多酒が認められるようになりました。それまで江戸では、灘・伊丹などの上方の酒が圧倒的なシェアを誇っていましたが、飲酒習慣の広がりにも後押しされ、知多酒が注目されはじめました。
他国から江戸に入る酒のうち尾張酒の占める割合は、多いときで全体の約11%となりました。尾張酒のほとんどが知多の酒であり、酒造りは知多半島全体に広がりました。なかでも、輸送用の廻船を多く持ち、江戸に近い半島東海岸に位置した半田・亀崎が知多半島の酒造業の中心となり、両地で約100軒もの酒蔵ができたといわれています。
 19世紀前半には、酒価格の下落もあり、知多酒は危機を迎えました。江戸に入る酒が急速に増えたことが原因です。知多酒が灘の酒より味が劣っていたこともあり、特に知多の醸造家たちが大きな打撃を受けました。多くの醸造家たちが廃業に追い込まれましたが、灘の味に近い酒を作り出すことに成功し、さらに販売の工夫を行うことで、再び知多の酒造業は大きな成長をみせました。
 また、19世紀前半、半田の中埜又左衛門は、酒の搾り粕を原料とした粕酢を作り、江戸で好評を得ました。当時江戸で流行していた早すしに使う酢として、認識されたからでした。幕末から明治初年にかけては、武豊地区を中心に味噌・たまり業が増え、武豊港が整備され、さらに発展しました。明治10年代になると、文明開化の影響を受け、醸造家たちは、ワイン・ビールなど新しい製品つくりに力を入れました。ワインは成功しましせんでしたが、ビールは、「カブトビール」のブランドとして定着しました。
 知多半島の醸造業の特徴は、酒・酢・味噌・たまり・ビールなどさまざまな種類の醸造を行っていることです。現在、知多半島の酒蔵は七軒となり、随分と少なくはなりましたが、昔ながらの酒の復元を行うなど独自の工夫を行っています。味噌・たまりは、伝統の味を守り続けていることもあり根強い人気があります。また、酢から幅広い食品への進出を目指す企業もあります。知多の醸造家たちは、食生活が著しく変化するなかで、それぞれの道を歩みながら、一大醸造地帯を維持しているのです。
 
常滑
江戸時代の常滑風景
●窯業
 知多半島は、焼物に適した粘土質の土壌に覆われていることもあり、古くから窯業が盛んに行われていました。平安時代から戦国時代に至るまで、知多半島には2000〜3000ヵ所の窯があったと言われています。約900年ほど前に、常滑に陶器生産集団が集住したことから、次第に常滑焼の名が定着しました。
 中世の常滑焼は大きく二つに分かれます。ひとつは山茶碗などの小口容器で、宗教儀礼などに使用されました。もうひとつは、直径80cmほどの大瓶です。主に貯蔵具として、あるいは酒・油などの液体の運搬具として重宝されました。その後、桶・樽の普及に伴い、常滑焼の用途は変化します。
 江戸時代に入ると、大甕は、大名などの墓棺に使われました。また、江戸を中心に密集型の都市整備が行われ、屋敷や長屋が所狭しと建築されました。そのため、他に染み出ることのない大瓶の便槽が役に立ちました。明治時代に入り、人々の衛生意識が高まるなかで、大瓶の便槽はさらに普及します。通常は質の低い大甕が用いられましたが、東京帝国大学図書館などでは、高級な大甕が使用されることもありました。
さらに常滑焼は、煉瓦・コンクリートと並んで近代建物の外装に用いられました。それはテラコッタと呼ばれる建築陶器で、京都市岡崎図書館や帝国ホテルが有名です。帝国ホテルの外装は、1971年(昭和46)に役割を終え、現在は博物館明治村に移築されています。
常滑焼は、生活に根づいている点も特徴のひとつです。同じ愛知県でも瀬戸焼は、茶碗などの小口容器が中心です。常滑焼は急須などの小口容器もありますが、水に強く火に強いという陶器の特性を活かしたものが多くみられます。水道の整備とともに普及した土管は全国に広がりました。常滑港に高く積まれた土管は、常滑の象徴的な風景でした。また、トイレ・浴室などが母屋と一体となったこともあり、水に強いタイルが好まれました。
常滑焼の置物は、陶製品を好む欧米人の心を捉え、芸術性が高い点に人気がありました。現在、輸出品は少なくなりましたが、招き猫や干支の置物が盛んに作られています。知多の窯業は、時代は変わっても、用途に応じさまざまな分野に進出しています。近年では、絶縁物質としてセラミックスが注目され、新たな商品開発が進められています。
 
 
知多の大黒鍬と小黒鍬
大黒鍬と小黒鍬

●鍛冶と黒鍬
 江戸時代、知多郡大野村を中心とする、いわゆる大野谷一帯には、多くの農鍛冶が集住していました。18世紀末には尾張藩領内の約半数の農鍛冶が知多郡に居を構えていました。農鍛冶は鍬や鎌などを製造し、欠けた刃先を補修する人々で、江戸時代の農民や大工などの仕事を支えていました。
 この大野鍛冶たちは、12世紀後半に近江国辻村を旅立った鍛冶職人6名が、大野村に住み着き、鍛冶を生業としたといわれ、徳川家康の命令により、駿府城の築城に参加したともいわれています。中世の大野湊は、伊勢湾岸の港湾都市の一つで、鉄資源の入手が容易であり、鍛冶職人の需要も高かったと思われます。使い古した鍋などを利用し、鍬の刃先の補修する独自な技術も持ってたとされます。古くから大野に鍛冶が集住しつづけたのもこうした理由があったからなのでしょう。
さらに大野鍛冶は、徳川家康から尾張藩領内に限らず他の地域に出向いて鍛冶仕事をする特別な権利を許されたという由緒を持っていました。実際、大野鍛冶の活動は、尾張東部のほか、美濃国の土岐・恵那・可児郡、さらに三河のほぼ全郡と、東海地域の全域にわたっていました。
 こうした大野鍛冶が作った鍬の一種に、刃先の巾が約24p、重さが約2.25sと、普通の鍬の約2倍の大きさと重さの鍬があります。この特殊な鍬そのものと、それを使って土木工事に従事する人々は、ともに「黒鍬」と呼ばれました。道具としての黒鍬は、「竹の根を切るのは豆腐を切るがごとし」「池などを新しく掘る時は、ほかの鍬の3挺分の働きをする」ほどの威力がありました。
 一方、黒鍬と呼ばれた人々は、一般の土や石を運搬する人足とは別に組織される技術者集団でした。江戸時代後期には知多郡内の約2/3の村に黒鍬がいました。この黒鍬が得意とした工事は堤造りです。雨池を造ったり、海岸や川岸に土手を築いたり、というのが黒鍬の活躍の場でした。知多半島に数多くある雨池も多くは黒鍬が築造したものと思われます。農閑期には三河・美濃・伊勢地方、さらには京都・奈良・大坂など遠く近畿地方にまで出稼ぎに行っていました。製塩で有名な赤穂でも塩浜の堤普請を請け負っています。知多の黒鍬の技術は各地で高い評価を受けていたのです。
 

尾州廻船
横須賀湊に停泊する廻船

●尾州廻船
 明治中期以前の日本では、物資の輸送手段として船が大きな役割を果たしてきました。特に、商品の動きが活発になった江戸時代、特に18世紀後半以降は、日本沿岸をさまざまな船が航行していました。尾張国内に船籍がある船(尾州廻船)もその一翼を担っていました。「尾州廻船」といっても、実際には大野・常滑・野間・内海・河和・富貴・半田・亀崎など、知多半島の各地を本拠地とする船がほとんどでした。
 尾州廻船の活動が活発になる以前から、菱垣廻船・樽廻船が江戸で消費されるさまざまな物資を大坂から運んでいました。しかし、スピードや安全性などの点で優位にたった尾州廻船が、それまで菱垣廻船・樽廻船が積んでいた荷物も運ぶことが増えてきました。また、尾州廻船が大坂以西の湊で西国や日本海方面からの荷物を買い付けるため、大坂に入る荷物が減少したともいわれています。このように全国の生産地と市場を結ぶ全国廻船としての尾州廻船の動きは、江戸・大坂間の物の流れに大きな影響を及ぼしていました。
 尾州廻船は、荷物を運んで運賃収入を得る「運賃積」と、買い入れた荷物をできるだけ高い価格で売却して利益を得る「買積」という二つの方法を採用して経営していました。運賃積は確実に運賃収入が得られる堅実な形態です。買積では、売買の価格差が大きい時には高い利益も期待できましたが、反面損失を出す危険もはらんでいました。そのため、相場などさまざまな情報を集めて、もっとも多くの利益が望める取引方法を選んで航行するという機動力が求められました。
知多半島の廻船もそれぞれの拠点ごとに特色を持っていました。湊として未発達で周辺にも船の積み荷に適する産物がない内海や野間の船は、上方・瀬戸内と江戸の間をつなぎ、上方・瀬戸内からは米・塩・砂糖・畳表などを、関東からは肥物・雑穀類を運んでいました。伊勢湾の比較的奥に位置する湊で、常滑焼の産地でもあった常滑の船は、生産力が高い伊勢湾周辺の産物、たとえば米・常滑焼・水油・傘などを、主に江戸方面へと運んでいました。一方、東岸の半田・亀崎では、対岸の大浜・高浜もあわせて、酒・酢・味醂などの醸造品、瓦などが大量に生産されていました。知多半島は江戸に近く、市場の動向に合わせて商品を出荷しやすいという利点を活かして、これらの商品を江戸市場へ送り込むための手段として廻船業が発達していきました。
大手資本の海運業への進出や鉄道網の整備、経済構造の変化などにより、江戸時代以来の廻船は19世紀末にはほぼその役割を終えます。しかし、廻船業で蓄積された資本はバスや銀行など、近代的なさまざまな企業へと投資されていき、知多半島の近代を作ってきました。