大野

1.小倉神社から宝蔵寺・飾り瓦のある町並
 小倉神社は大野村の氏神です。境内には天満社・御鍬社など七社がまつられています。春祭りには、前戸に格子状の引戸があり、前後の幕を巻き上げた名古屋型の山車・唐子車が出されます。小倉神社の西側の常滑街道周辺の字は「ハタゴ」で、大野が潮湯治で賑わっていたころの名残が感じられます。また、このあたりの常滑街道に面した建物には何ヶ所か飾り瓦が見られます。宝蔵寺には、愛知県では数少ない緑泥片岩の板碑があります。

小倉神社
小倉神社

2.大野海水浴場と海音寺 
 大野海水浴場は、12世紀半ば「方丈記」の作者・鴨長明が和歌に詠んだほど、古い歴史を持っています。江戸時代には徳川家康が訪れたこともあり、尾張藩の歴代藩主の保養地にもなっていました。古くは「潮湯治」として病気の治療に利用されました。海に接して建つ海音寺には薬師如来がまつられ、その薬師のお告げによって作った薬が瘡毒に効果があったといわれます。大正から昭和半ばにかけては海水浴場として賑わい、大野町駅から海までは人の波が切れず、夏の間は演芸場や射的場などが開設されるほどでした。その後の工場の増加や防波堤の整備によってかつての海岸の風景は変わってしまいましたが、近年遊歩道や人工海浜が整備され、ふたたび海との距離が縮まっています。

3.江崎神社と矢田川沿いの道 
 江崎神社は海上安全の神様として信仰を集めています。棟札によれば、本殿は17世紀前半に水軍の祈願により再興されたもので、17世紀後半には江戸と熱田の廻船問屋からの献上物もあったと伝えられています。春祭りの夜神楽で矢田川に浮かべられる権丸も奉納されています。矢田川河口部が大野湊で18世紀半ばごろまでは知多半島の廻船の最大の拠点として栄えていました。尾張藩廻船惣庄屋・中村権右衛門の居宅や蔵もこの付近に建ち並んでいました。現在でも矢田川南側には材木屋などがあり、防潮堤で分断されてはいますが、かつては矢田川から直接荷揚げできたと思われる蔵もあります。大野橋近くには船繋ぎの杭がかろうじて残っています。

4.常夜燈
 1863年(文久3)に町内の安全を祈願して建立されました。元は大野橋南詰に建てられていましたが、現在は矢田川河口南側に移されています。

常夜燈
常夜燈

罫線

5.大野町8丁目・9丁目の町並
 大野村の南端のこのあたりには神社や寺が密集しています。松栄寺には海上安全の神・金毘羅権現がまつられ、軒瓦には「金」の字が刻まれています。本堂の格天井には19世紀前半の久村(南知多町)の俳人・一樹庵楚山などの作による俳諧と絵が描かれています。内宮御祭宮社は、度重なる台風などの被害で境内は狭くなっていますが、神明造の本殿は伊勢神宮の古材を使って建てられていて、玉垣には「太一」の字が刻まれ、伊勢神宮の遙拝所にもなっています。斉年寺は初代大野城主佐治宗貞の菩提を弔うために創建され、大野城滅亡後に現在地に移築されました。雪舟筆「達磨大師恵可断臂図」(重要文化財)を所蔵していて、毎日午後五時には時の鐘がなることでも知られています。東龍寺は織田信長から田地の寄進を受けたり、徳川家康をかくまうなど、戦国武将とゆかりが深い寺です。知多半島では野間大坊に次ぐ古い建築物です。十王堂には閻魔王のほか人の死後に生前の罪業を調べる十人の冥府の王がまつられています。格天井81面の絵は名古屋の有名な絵師の手によるものです。

町並
十王堂

6.大野橋周辺の旧家群 
 常滑街道の大野橋付近には、大野の中心で有力商人たちが多く住んでいました。北側には、浜島伝右衛門・綿屋六兵衛などの屋敷がありました。浜島伝右衛門は本陣も勤めた豪商、綿屋六兵衛は木綿の商いで財をなしたといわれています。綿屋六兵衛宅は現在の「わた六寿司」です。その隣の湊屋は、「尾張名所図会」にも登場する「一口香」で有名な菓子屋で、17世紀半ばから続いていましたが、14代当主が亡くなり近年閉店しました。「一口香」は風月堂に引き継がれています。大野橋南には木綿買次問屋の大黒屋杉山利兵衛宅の蔵が今も連なっています。代々大野村の庄屋を勤めた平野家は尾張大野郵便局の北にあり、屋敷には大野で現存する唯一のうだつが残っています。

旧家
うだつのある屋敷