内海

1.高宮神社
 東端の公民館の脇から、およそ200段の石階段をのぼると社殿につきます。境内前方からは、一面に広がる砂浜と内海川両脇の旧家群という、内海の風景を一望することができます。石階段とその途中にある常夜燈など、前野小平治や内田佐七といった内海の廻船主や内海出身の名古屋有数の豪商・内田忠蔵などが奉納した石造物が数多く残っています。

2.千歳橋からの風景 
 内海川にかかり、東端と西端をつなぐのが千歳橋です。橋の西側には古井戸があり、生活感が漂っています。内海川に面しては、船の作事場の跡や廻船主から転業した「富好」の酒蔵を見ることができます。船による物資輸送が盛んだった時代には、「富好」の酒蔵付近で、石炭や材木などの上げ下ろしが行われていました。

千歳橋からの風景
千歳橋から北を臨む

3.東端の旧船主居宅群 
 内海ガスの北側を東に入る路地は江戸時代からの古い道で、この路地に沿って黒板塀が連なっています。この黒板塀の居宅5軒は、いずれも18〜19世紀に建てられた内海船の廻船主の屋敷です。廻船主の居宅群としては太平洋沿岸では有数のものです。その中の1軒・内田佐七家には太い梁りの土間、廻船主らが集まった座敷なども残っています。

東端の旧船主居宅群
旧廻船屋敷

4.泉蔵院と慈光寺
 両寺院とも、知多新四国八十八ヶ所の札所で、絶えず参拝者が訪れています。慈光寺には、1850年(嘉永3年)に、内田佐七家の船頭豊吉が隠岐から持ち帰った「あごなし地蔵」が置かれています。泉蔵院には、内海を代表する廻船主・前野小平治寄進の金毘羅堂があり、堂前にある灯籠は、尾道の商人が寄進したもので、刻銘は頼山陽といわれています。いずれも廻船業で栄えた内海ならではの石造物です。東端の泉蔵院と西端の西岸寺が毎年7月20日に行われた戎講の参会の会場でした。

5.海難除地蔵
  内海川河口の水門近くに海難除地蔵があります。前野小平治らが世話人となり、名古屋や美濃の人々が1786年(天明6年)に奉納したものです。その地蔵の隣には、産卵後に海に帰れず砂浜で死んだ亀を葬った墓(龍亀尊碑)もあります。

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海難除地蔵も龍亀尊碑も、もとは現在より100メートルほど海側にあった共同墓地にありました。1855年(安政2年)の地震の際には、墓地周辺は津浪の被害に遭いましたが、海難除地蔵はまったく無事だったという言い伝えがあります。
海難除地蔵
海難除地蔵

6.唐人お吉生家跡 
 幕末期に、伊豆下田でアメリカ総領事ハリスの看護にあたったのが、お吉という名の女性でした。お吉はその後世間の厳しい目にさらされて、悲運な一生を終えます。お吉の物語は、小説・芝居・映画に取り上げられ、広く知られるようになりました。お吉は内海川河口の船大工の家の出身で、下田へ一家転居後にハリスの看護人に雇われました。お吉の先祖の墓は西岸寺にあり、近くにはお吉の像やお吉の身代わり不動がある吉明寺があります。

7.西端の町並 
 西端は廻船主のほかに水主(乗組員)などが多く住んでいたといわれています。日比家などの旧廻船主の居宅も残っていますが、入り組んだ路地にはそれほど大きくはない民家が軒を連ねています。現在では古い民家をそのまま利用した企業の保養所も多く見られます。その中でひときわ目を引く大きな屋敷は、戦国時代以来の由緒を持ち、明治維新後に内海に移り住んだ大道寺家の別荘です。その他、西端には戎講の参会が行われた西岸寺・廻船主などの奉納物がある山神社などがあります。

山神社
山神社

8.南知多町郷土資料館
 内海の中心部から国道247号を北に進み、美浜町に程近い場所に南知多町郷土資料館があります。現存では珍しい廻船の帆桁や、800石積廻船宝久丸の板図(設計図)、それを基に製作した10分の1模型など、貴重な廻船関係資料と漁業道具が展示されています。この付近は砂地で、昭和初期にはサンドスキー場が整備され、雪のない季節のトレーニングや観光に利用されました。

南知多町郷土資料館
宝久丸模型