「ウ」というと、多くの人は、長良川などの「鵜飼」で観光客の前でアユを見事に捕らえる、あのウをまず思い浮かべるのではないでしょうか。現代では観光用の特別な鳥というイメージを持たれがちなウですが、ここ知多半島の人々にとって、ウ(カワウ)は百数十年にわたり、日常風景の一つとして、あるいは生活の一部として深く関わってきた大切な「仲間」でした。その歴史の名残ともいえる、日本でも有数のコロニー(繁殖地)「天然記念物鵜の山鵜繁殖地」が、半島の南部、美浜町にあります。
魚食性の水鳥であるウは、もともとわが国の各地でよく見られた鳥の一つです。森にコロニーを作り集団生活するのが特徴で、毎年冬に各地から飛来し、春に巣づくり、夏にヒナの巣立ち、秋に再び分散、という生態を繰り返します。ただ集団生活による大量のふんが時に森の木々を枯らすことがあり、昔からウは、森から追われる宿命をもった鳥でした。
ところが江戸時代末の天保(1830年)年間、当時の大日山(現在の鵜の山)にすむウのふんを、地元民が大変良質なリン肥料として利用し始めたことから、鵜の山の新たな歴史がスタートします。
地元民は明治時代、ウからふんを集める権利を入札制にし、得られた収益を蓄えて濃尾地震の災害復興費や、困窮者への救済金として活用しました。また、大正時代の初めには、収益で小学校が建てられました。そのためウは、当然昼夜を問わず手厚く保護され、法律で狩猟者からも守られました。昭和9年には「鵜の山」は国から天然記念物に指定され、ウと人間との共存共栄が続きます。
しかし戦後日本が高度成長期に入ると、人々が労力のかかる肥料作りから離れていったのはもちろんのこと、水質悪化等によりエサの魚が減り、コロニーの森が荒れたため、ウは1960年ごろ「鵜の山」から次第に隣接の丘陵地へ移動し始め、70年代には全く姿を消してしまいます。長年「仲間」として共に支えあってきたウの絶滅を憂慮した地元の人々は荒れた森に植林し、営巣台を設け、水域環境を改善し、ウが「鵜の山」に戻ってきてくれるのを辛抱強く待ちました。その努力が実り、90年代には再びウが営巣し始めます。その後順調に生息数は増え、現在「鵜の山」は愛知県内に生息するウの総数の半数、約1万羽が暮らすコロニーとして見事に復活を果たしました。
かつて知多半島に経済的豊かさをもたらしたウは、今では懐かしい風景の一つとして、地元の人々のみならず、多くの自然を愛する人々に心の豊かさをもたらしているのです。
(参考文献:佐藤孝二著「ヒトとカワウ」2001年日本福祉大学知多半島総合研究所刊)
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