知多半島の文学碑

万葉歌碑  横須賀俳壇  旧派和歌  風葉と南吉  種田山頭火

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■横須賀俳壇

 江戸時代、尾張藩の要地として栄えた東海市尾張横須賀では、俳壇が成立

し多くの人々が俳諧を嗜みました。全国的にも活躍した俳人・暁台が一時期

ここに住んでいたことも影響しています。

色かへぬ風のしらべや松みどり (方間舎楓京)  

(東海市横須賀町三の割大教院)

大教院の碑

 「八公石」と刻まれた大教院の碑。楓京の句は、この側面に刻まれているが、柵がはりめぐらされ、確認できない。

 

浦の梅花かたつらにさきにけり (暮雨巷暁台)

(南知多町山海西方寺)

暁台句碑 読経姿

暁台句碑。苔むして判読困難。

碑の横には知多四国の巡礼の読経姿。

 

 

栗の穂に入まねかせん狐塚 (暮雨巷三世 村瀬帯梅)

(東海市愛宕神社境内)

帯梅の句碑 銀杏 愛宕神社の銀杏。帯梅の句碑はこの奥にある。

 

             

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■旧派和歌

戦前の知多半島では、和歌も盛んだったようです。知多半島には御歌所(宮内

省にあった部署)に属した歌人の歌碑もあります。

萬代もかはらぬかけを亀崎の なみにうかべて月てりにけり (黒田清綱)

(半田市亀崎町 神前神社裏亀崎城址)

 亀崎城址の藪に隠れている歌碑。

 これは大正天皇即位の大嘗会で披露された、祝いの歌です。

 亀崎は月見の名所でもありました。

 

うめのはなさきくとさとのゆくすゑを おもひのいろにつきかへにけむ(坂 正臣)  

(知多市 佐布里ダム記念館庭)

 梅木に囲まれて建つ歌碑。

 坂正臣は、東海市出身の歌人。歌や書に長け、皇族子弟の指導にもあたりました。これは、「梅の花とこの里を、よくぞ思った色に変えたものだ」と、薄紅の「佐布里梅」を生み出した翁の功労を詠んだ歌。

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