大野

大野は知多半島のなかで最も古くから栄えた町です。鎌倉時代末には一色氏、戦国期には佐治氏が知多半島支配の拠点としていました。矢田川河口は桑名など伊勢方面とを結ぶ湊として、人や物資の往来でも栄えていました。本能寺の変の際、伊勢から三河に逃げる徳川家康が上陸したという説もあります。そのため、15世紀末から16世紀にかけては、商人や職人が多く住み、廻船業や醸造業も盛んでした。知多半島の味噌造りは大野の三河屋宗平から始まったといわれます。また、廻船惣庄屋が置かれ、尾張藩の廻船支配の拠点でもありました。知多半島のほかの地域の産業が盛んになるにつれて、大野の地位は相対的には低下しましたが、岡田に集められた木綿の積出湊として重要な位置を占めていました。また、尾張・美濃・三河へ出職する鍛冶職人の拠点としても知られていました。産業の町・大野はもう一つの顔を持っていました。それは行楽の町・大野です。大野海水浴場は「潮湯治」の場として中世以来の歴史を持っています。江戸時代には名古屋との間に定期船が通い、名古屋町人の行楽地としても知られていました。