内海
夏は海水浴で賑わう内海海岸ですが、海水浴がレジャーとして定着したのは20世紀の初頭のこと。それ以前の内海は廻船の町として全国的に知られていました。小野浦から大井までの半島南端部には数多くの船持ちがいて、その船は「内海船」と呼ばれていました。内海船は、瀬戸内各湊や上方(大坂・兵庫)と江戸をつなぐ廻船で、活躍したのは18世紀後半からの約1世紀です。内海船は戎講という廻船の仲間を結成して、最大時には約100艘もの船が所属していました。内海はその内海船の中心に位置する集落です。内海川をはさんで、東端と西端には、多くの廻船主・水主・船大工などが居住していました。経済構造・流通構造の変化にともなって19世紀末には廻船経営を行う家はほとんどなくなります。しかし、その後の内海では知多乗合自動車会社が営業を開始して、陸上交通網が整備されていきます。昭和初期には、サンドスキー場や鉱泉が開発されます。自動車会社の宣伝も功を奏して、名古屋近郊の観光地として、内海は新たな方向へと発展していきました。